2008/03/30

風が吹くとき

http://jp.youtube.com/watch?v=W73ez-6gY-Y

1980年代、東西冷戦は代理戦争の時代から、もっと冷たく金属的な核の時代に。
この時代には世界の終わりがどこでも見受けられた。
アニメーション映画の「風が吹くとき」もそんな世代の産物だ。
けれど、それは大衆メディアのマスではなく、大量殺人のマス。

自分では?
世界の終わりを想像することは、とても美しい音楽や絵を楽しむのと同じように感じていた。
不謹慎きわまりない。けれど、そう感じていた人間は私だけではなかったはず。
善悪の問題ではない。どう感じるかの話だ。

そして風が吹くとき。
まぁ、今ここにこれを書いているきっかけは…
DavidBowie の主題曲 when the wind blows が触れただけだけど。

風が吹いて桜が散っても、
私の書いたコードが吹き飛ばなければ、
今日のところは人生に満足しておこう。

2008/03/28

対話

よく私のブログや記事を読んだ知人や第三者から、不思議な内容を書くと言われる。
実は私にとっては文章というのは単純な会話の方法だ。
例えばゆっくり話せない友人がいるとする。その友人のことを考える。
きっとこんなことを聞きたいんだろうな、とかを空想して、内容を書き進める。

そうそう、それからモノ書きにとって、記事というのは危険な香りのするラブレターでもある。
シャーロック・ホームズを思い出してごらん。
きっと新聞の三行広告には謎の言葉が秘められていて、
それはメッセージかもしれない。

そのこと自体に意味を求めてはいけない。
その謎を想像すること自体が、
私の空想と、君の空想の対話なんだから。

2008/03/23

light

 言葉には魔力があると信じている
 日本語には日本の古い時代 文字文明以前の日本を伝える言葉がある。
 勿論それは文字ではない。音だ。
 所謂大和言葉というもので、現代では一見異なる何かを表す同音が、大和言葉では同じイメージを持つ何かを表していたりする。
 例えば、ヒカリ。
 ヒカリを生むのは火、それは日と通じる。また時間としての日、ヒが結実するのはホ。
それは炎。炎は火の尾をさし、日本の古代の人々が、炎ではなく熾火に火を見ていたことを感じさせる。確かに火を絶やさぬのは炎を絶やさないことではなく、熾火が絶えることないようにすることだ。そして、稲の穂は、太陽=日の結実。

 日本語ばかりではない。全ての言語には独自のイマジネーションがあり、その言語を使い続ける限り脈々と受け継がれる独自の概念がある。

 最近、とある理由で The Doors の Light my fire のオルガンパートを弾いたりしている。
 で、そのその light と fire の「熱の来た源」と「熱の行く先」に想いを馳せた。
 そして、オルガンパートの冷たい響きが心地良い。

 そういえばこのブログには fire も sun もある。これは和風なイマジネーション…なのか?

2008/03/13

狂気かつ高貴な魂

「食べるときは世に野放しになっている無礼な連中を食らう」
ハンニバル・レクターの言葉だ。

2008/03/10

floating thing

浮気性だと思ったことはないんだけどな。
うん。

2008/03/02

季節の終わりとはじまり

冷たいワケじゃないんだけど…。

何故か親しい人に優しいやつだと思われています。それに情が深いと。
そういう風に故意に誤解させるような言動をする自分がいるんだけど、
けれど…意外に冷たいんだよね…。

何かが終わるとき、ちょっとした物寂しさを感じて、
感傷的になって詩を書いたりはする。
けれど、生活という意味ではとても切り替えが早い。

気を遣ってくれる友達にはとても悪いんだけど…。

で、それを見抜いてるやつは言う「冷たいよねぇ〜」
それに対して私は言う「冷たいワケじゃないんだけど…」

季節が終わって、次の季節がはじまるとき、
それが良い季節であっても、悪い季節であっても、
空の色が変わるとき、私は心躍る。

そう、冒険のはじまりだ。
季節が変わるとき。
私は何も捨てるべきものをもたない。
力強く一歩を踏み出す。

みんなの期待を裏切って、言葉は最小限にとどめる。