2009/04/16

Another versions under another skies, welcome to another heaven.

 物事を気に入る方向性というのはそれぞれだと思う。
 自分の場合にはお気に入りの何かというのは「とびきり」のもので、音楽でも同じ曲を100回連続で聴き続けるくらいはあたりまえで、同じ曲の10の異なるバージョンやアレンジを楽しむのも好きだ。オリジナルのアーティストのものは勿論、他の誰かの同じ曲を聴くのも好きだ。
 本でもそう。同じ物語の他言語の版や、翻案も好きだ。

 同じものを突き詰めて味わい理解するのもそうだが、同じものの異なるバージョンを味わうことで、お気に入りのものについての感覚や理解の幅が広がる。


Another versions under another skies, welcome to another heaven.
異なる空の異なるバージョン、異なる天国への誘い


 今夜は8つの異なる 25 or 6 to 4 を楽しんだ。



 さて、三月からライフスタイルが大きく変わった。一人で生活することと、二人で生活することとはやっぱり違う。
 興味深いのは自分のためには出来なくても、誰かのためには出来ることがたくさんあるということ。それと、自分一人では出来ても誰かと一緒には出来ないこともたくさん。そのトレードオフは良い方向にあるのかどうかは良く判らないが、今はとてもその状況を楽しんでいる。
 最初は音楽を聴いたり、曲を作ったりする時間、それに文章を書いたり、本を読んだりする時間が激減するかと思っていたが、激減したのはむしろだらだらしている時間だった。自分の精神を高揚させるために使っている時間やエネルギーは少なくなかったんだな、と思う。季節が変われば、状況も変わるんだろうけど、良い勉強になる。
 どちらにしても、自分の在り方を歪めることなく一緒にいられる相手といられるってのは良いもんだ。それが永遠ではないとしても。

 こう思うことにしよう。
 どちらにしても人生だって永遠じゃないさ。

 だから、異なる空で異なる自分を楽しむことは大切だ。
 ひとつの楽園が永遠じゃないとしても、異なる楽園だって悪くない。

 おやすみ。

2009/04/14

25 or 6 to 4

Chicago 25 or 6 to 4 (1970)
日本語名は「長い夜」
元の意味は「午前4時の25〜6分前」
なんか違う気もするがまぁそれは良しとしよう。
自分にとってはナガイヨルじゃなくて、twenty five or six to four だけど。

Chicagoはホーンを加えたビッグバンドっぽい古き良きロックバンドだが、
この曲でもホーンが全面に出てくる。
イメージにぶれがなく、しかも、ギターリフが懐かしく格好良い。
お気に入りの一曲。多分小学校のときにラジオで聴いて気に入ったんだと思う。

ちなみにこの曲には初出のアレンジの、ピーター・セテラが歌うバージョンと、
Chicago 18 のスローなリズムとホーンが特徴のバージョンがある。
どちらもなかなか良いが、自分はピーター・セテラの声が好きだし、
曲名には最初のバージョンがあっていると思う。
スローバージョンは日本語タイトルがあっていると思うのは私だけかもしれない。



この曲のタイトルの午前4時の25〜6分前というのは自分でも好きな時間。
緊張感というか、ストレスが極まる頃だ。
まだまだ空は暗いが、仄かに不気味に朝が近づきつつあるのが判る。
空気は無意味に静寂につつまれ、静寂自体がひとつの音を感じさせる。
そして、この時間は昨日と今日の限りなく不透明な境目。
形容しがたい感覚だが、毎日、この一瞬で
昨日と今日、今日と明日がつながれていて、
その物騒な喪失と再生に遭遇している感覚。
そして気怠げな睡魔の生々しい声。前頭葉の重苦しさ。
現実と夢との境界線では、非現実的な光が交錯し、手のひらが熱くなる。
その時間に睡魔におそわれるときは、いつもそんな感じだ。

この曲の歌詞は1970年代にはドラッグのことを歌った歌だと言われたらしいけれど、
自分にとってはその時間帯の睡魔にそっくりな歌詞だと思う。

修行

昔々思ったことを思い出して書きます。

ロールプレイングゲームってあるじゃないですか。
主人公を演じて、物語をすすめて行ったりするやつです。
あれをプレイすると私も含めて10人中9人は(或いはもっと高確率で)
経験値を上げて、レベルを上げて、
良い武器を揃え、高度な魔法を習得し、
より困難な目標に向かって行きます。

主人公の苦しみを本当の意味で味わうことはないのはともかくとして、
自分自身の貴重な時間を使っていることは同じなのに、
何故か現実生活で同じペースで同じことが出来る人間は
10人中一人かそれよりも少ないですよね。
利害という意味では、現実の方がなおさらその恩恵も大きいんですが。

多分、ゲームには明確な目標が与えられてあって、
現実の方にはそれが「与えられて」いないということが理由かと思っています。

さて、自分の人生というゲームに目標をもってプレイしていますか?
それはつまるところ、自分の人生の主人はちゃんと自分自身ですか?という問いになると思います。

ちなみに私の人生と言うゲームの目標は…だらだらすることです。
こんな目標でもちゃんとだらだらするためには、
いろんな経験を積んで良い仕事して食い扶持を稼いだり、
主人公がぐれないようにちょっとした恋愛もしたり、
だらだらしすぎて何もかも失わないように管理したり、といろいろと大変なもんです。
ちゃんとだらだらするためには一定程度の勤勉さや真摯さも必要となるわけで、
かといってあまり勤勉で真摯すぎたりするとだらだら出来ないし。
幸運なのは自分にとっての現実というのは良く出来たゲームで、
今のところ非常に優れたゲームバランスを保っています。
つまり!適度にだらだらしてます。

とだらだら書いて見たんですが、
この話を書いた一番の理由は、
ブログのカテゴリ作って以来、ゲームが少ないな、と思ったもんで、
ゲームに触れる話題を書いただけです。

だらだら。

2009/04/12

読書百遍自ずから意通ず

楽しくなかったら、
楽しくなるまで…苦しくてもやり続けること。
突き抜けること。

理解出来ないものは、
理解出来るまで考えること。
すっきりした答えを見つけたら負け。
すべての真実は適切な量の矛盾をはらんでいるはず。

愛読書はぼろぼろになる。
同じ曲を繰り返し聞き続ける。
自分であり続けること。


さて、

読書百遍自ずから意通ず。
三國志、献帝の時代の董遇の言ですね。
他人の解釈に頼ったり、判ったつもりで終わることを戒めた言葉です。

ついでに言の葉をもうひとつなど。

「学然後知不足、教然後知困」礼記。
学びて然る後に足らざるを知り教えて然る後に困しむを知る。
知れば知るほど、知らないことが多いことを知るものだし、
そのまだまだ知らない自分が人に教えれば、
間違ったことを教えてないだろうか?伝え方を間違っていないだろうかと苦しむ。

だから、そんな苦しいことはやめて楽に生きようぜ!

という言葉ではないので。
念のため。

2009/04/06

英雄

英雄不在の時代を生きている。

理想に燃えた英雄たちは、理想が実現しそうだったから戦ったのではなく、理想のために戦った。
いまだに理想は実現していないが、その人たちの生き方にある種の美しさを感じるのは何故だろうか?


「ここにいるのは英雄ではない。ただの一人の男だ。撃ちなさい」
    チェ・ゲバラ


そしてそその「ただの一人の男」は言ったわけだ。


もし私たちが空想家のようだといわれるならば、
救いがたい理想主義者だといわれるならば
できもしないことを考えているといわれるならば
何千回でも答えよう
「その通りだ」と。
    チェ・ゲバラ


もう少しで彼が死んだ歳になるけれど、私は運良く長生きして百年ちょい。
でも、彼は何世紀でも生き続けるんだろうな。
名声とか、歴史に名が残るとか、そういう意味じゃなくて、彼の魂はずっと誰かの魂の中に生きるんだろうな、と。

私は決して彼の闘争の方法を認めないけど、自分の思想や主義主張と異なるこの人に、何故か悪意を持てないのはなんでなんだろうか。
きっと美しい生き方だからだな…。


追伸 映画は見ません。