2010/02/22

グインサーガ

 比較的幼い頃から外国文学と親しみ、特に現代に属する日本語作品にはあまり親しまなかったのですが、そんな中でも、唯一長々と読み続けていたのは栗本薫のグインサーガでした。それほど熱狂的なファンでもなかったし、正直なところ作者と作品の持つ独特の悪ノリ感はあまり好きでもありませんでしたが、そのこと以外では十分に満足するべき作品でしたし、少なくとも一年間に数百円〜数千円程度の出費で楽しむには十分すぎるほどに優れた作品でした。
 そう。何故今まで語らなかったのかは自分の中でも不分明ですが、もしかして「でした」という表現を使うことに苦しさを感じたからかもしれません。文庫本で130巻。ペリーローダンシリーズのように複数の作者によって書かれた作品であればともかく、単一の著者によって書かれた小説としては最長か、或いはそれに類する長さではないでしょうか。ギネスブックは「単一の書籍」ではないという理由で認定はしていませんが。
 思えばグインサーガを読み始めたのは、確か小学5年生の頃です。その頃の自分は、手頃なミステリーを読み尽くして、アジモフやハインラインのSF小説に夢中でしたし、そして、コナン(名探偵じゃないよ)や指輪物語にも夢中でしたから、グインサーガは現在進行形で楽しめるファンタジー小説としてはとびきりのものでした。
 中学生だった頃の印象は、その頃読んでいた、マキャフリーのパーンの竜騎士に近いSFとファンタジーの交錯する世界観だな、と感じていたものです。そして高校時代から大学時代を経て、自分なりに多忙な20〜30代を経て、今40歳という年齢に一歩近づいてみると、小学生の頃から現在まで絶えずに続いているものなんて、両手の指ほどしかなくて、その中の一つがグインサーガだったんだなと思うわけです。

 読んでいない人は知るべくもないでしょうが…グインサーガの中の出来事を思い出すと、いまさらながら、自分自身のそのときを一緒にページの中から引っ張り出す思いです。昔は良かったとか、思い出したくない、とかではなくて、ただ、痛みを感じるのです。後悔と呼べるほどの重みがあればまだましですが、どちらかというと羞恥心に属する感傷を、ね。



good midnight.

2010/02/19

境界領域

 境界領域には神話が自然発生します。どのような未開の土地にも、その土地の既知の領域と、未知の領域とのグラデーションを表す、一定の緩衝領域があり、それが境界領域としての機能を果たします。
 境界領域には場合によっては死の象徴である動物の骨や立ち枯れた大木などのイメージが付与されますが、これは逆説的には無生物の領域ではないということになります。本当の荒野・砂漠であれば、むしろ光景は死の象徴さえ伴わないでしょうから。死の象徴は、そのまま、それは生の象徴でもあるわけですが、実際には、その意味するところは、生命の領域の終焉ということろです。

 ところが、境界領域というのは実際に死に満ちているわけではありません。単に、未知の領域に近づくことで、観察者の文明が施す、人工的な空間、つまり、文明から離れているに過ぎません。野の獣が人間の目から隠れれば、そこに残るのは死骸だけでしょうし、文明の範疇にない文明人のもたらす破壊的な開発は、森林を伐採し、植物の死骸をその文明の周辺部に積み上げるという結果になります。
 ただし、残念ながら、ある文明の未知の領域が、必ずしも歴史的な未知の領域を表しているわけではありません。それは単にある文明と、もう一つの文明の、空間的・時間的乖離を示しているに過ぎません。こういった境界領域を緩衝として、複数の文明が共存出来る環境があることは、その世界の知的活動全体という抽象にとっては、絶滅や破滅を避けるための多様性をもたらすものといって良いでしょう。

 残念なことには、それは世界の全体という抽象的な知的集合を構えれば、ということであって、個々の文明の寿命や、まして、歴史の中で小さな個人の存在にとっては、殆どの場合には破滅の危険性を表すわけです。ですから、すべての文明も個人も、その危険性に抗うべく、常に拡大を目指して、新たなる光景、境界領域への浸食を続けざるを得ないわけです。ただ、文明を構成する全体が、投機的な開拓や冒険に傾くのは危険ですし、一個の文明は非常に巧妙に、それぞれの個性として、異なる個人の嗜好を育み、結果的にはその多様性によって、文明の維持と拡大の両方の可能性を模索することをその宿命としているのです。

2010/02/14

変化

曲がり角の店がなくなった
新聞配達の少年は次の角で溜息
少年の影には昨日の夕陽の気配
そんなことはどこでも起こる

道ばたで音楽を聴きながら心を澄ませる
それはとっても小さなことなんだと気付く
そして
それはとっても小さなことなんだと

深夜のプールの色が深いから痛いんだと
君はそういったね
それから、ナイフの鋭利さが失われるにしたがって
痛みは増すんだと

僕もそう思う
だけど、何も変わらない

2010/02/11

 開拓という仕事は、誰かが既に成し遂げた発見の中から、より美しい宝石を探し出す作業です。時にはそれは泥の中にあり、先駆者が手を触れない割りの悪い作業に思えるものですし、しかも、事実、その仕事は成果によってしかあがなわれません。
 その意味では、開拓はフロンティアの発見より、地味な上に投機的な事業であることも確かです。それにも関わらず、開拓に携わった人々の多いことは瞠目するに値します。

 ところで、この川の静かなせせらぎはどうでしょう?川の水面が織りなす乱反射に目を奪われている少年は、この川の発見者ではありません。けれども、彼は彼の歴史の中で、紛れもない発見者であり、そして、彼はこの川の流域の開拓者となるでしょう。歴史というのは、そういう意味で個人の経験を覆すには至りません。けれども、この先、彼がもしも、先駆者のことを知る機会が来るとしたら、彼は絶望するよりも、むしろ、感激するに違いありません。なぜなら、彼の目に美しいと思ったものを、同じように美しく愛おしんだ人々がいたということに気づくからです。

 そして彼は成人してこの川に名前をつけました。「いにしえの流れ」と。
 でも、彼は「あること」を知らずに一生を終えました。
 彼が見いだした先駆者もまた、その更に前の先駆者のことを思い、川に「いにしえの流れ」を意味する名前をつけていたことを。

 ところで、豊かな湾から離れたこの川の水源は、夏まで冷たい氷をその頂にいだき続ける高い峰にありました。湾に住む人々は皆、その恩恵を真水という形で受けていましたが、彼らの生活の場所は天空から見下ろす鳥の目から見れば、ほんの小さな海沿いの一角から離れることはありませんでした。彼がこの川の源流を溯って、古くは文明のあった三角州のひろびろとした荒れ地にたどり着いたのは、それだけでも一種の冒険だったのです。
 この荒れ地は、幾度にもわたる洪水などで、土砂や岩石が積もり、先人たちの町の跡は隠されていたのです。

2010/02/03

抽象化

 私はゲームが大好きです。電子的なものも、そうでないものも。他の人と競うという楽しさよりは、本などよりもずっと複雑に展開する一種の可能性のようなものにおもしろさを感じたものです。今、システム関係の仕事をしていて思うのは、ゲームとシステムには相似点が多いと言うことです。つまり、現実の何かを仮想的にシミュレートしてみるということです。
 勿論、現実そのものを再現することは困難なので、主に技術的な制約によって抽象化度は異なります。例えばシステムにおいては、より単純な家計簿ソフトでは、シンプルな仮想の財布或いは口座に対する入出金を、主に数値として再現して見せています。また、将棋や囲碁などのクラシックなゲームでも、人や隊列といったものを、抽象的なコマという手段を用いて再現することで、仮想的な戦場を通して、戦術・戦略といった要素を再現し、その可能性を探る仮定を通してゲームにしあげています。
 抽象化度を技術という側面だけで見ると、使用する技術の高度さは、抽象化度と反比例するかのような関係が見られます。これは特にゲームにおいて顕著に見られます。クラシックな形のゲームは、やがて高度な音と映像、そして立体や物理法則も含めた状況の再現によって、高度なシミュレータとして楽しまれています。業務用のアプリケーションですら、方向性は異なるものの、より複雑で広範な情報を集積することで、より高度に状況や管理機能を達成しようとするアプローチは同じと言えます。

 では抽象化度を技術的な範囲が許す限り低く抑えることが、正しい進化の道のりでしょうか?私はそれは真であり、偽であると思います。なぜなら、抽象化を低く抑えて、より広範な情報を処理するようになることが正しいというのはまさしく真です。しかし、その操作性をそれにともなって複雑にすることが真かというと、必ずしもそうではありません。
 要は、情報精度の抽象化度を抑えつつ、インターフェースを可能な限り抽象化することのバランスがポイントだと思います。

 極度にリアルなゲームが、視野狭窄的になって、ゲームであることよりも「追体験」的な映画のような仕上がりになっているのは、私にはむしろ退化のように見えます。確かに、それは実現不可能な現実を体験するためのシミュレータではあるかもしれませんが、果たして、ゲームとしての完成度がどうかということについては一考の余地があるように思えます。

2010/02/01

お買い物

 今週末は出費続きでした。
 まぁ、土曜は同居人に良いことがあったらしいので、半分そのお祝いかねて居酒屋にお出かけして、日曜は靴やシャツを買ったりとかいろいろ。

 お買い物といえば、こんな記事があった。同じようにこんな記事も。それから、それらすべてに対する批評も。批評に対する批評も。それから…(以下略)。いろいろな意見をウェブ上で見ることが出来るのはとても良いことです。そうは思わない人がいるとしても、ね。

 他の人の批評やら感想やらは全部さておいて、自分的には今のところ Amazon KindleStore で買って Kindle for iPhone で読むという使い方が定着しています。難点は画面が狭いこと「ではなく」、画面が発光体であること「でもなく」、バッテリーの残量が気になるという一点な気がします。
 自分的には、選択的にバックライトを点灯できるE Ink画面のiPhoneをAppleで出してくれて、Amazon KindleStore で買った本を、Kindle for iPhone で読める環境が、バッテリー残量をあまり気にせず得られたら一番良いんだけど。時代が自分に合うのを待つか、或いは自分が時代に合わせてどれかを使うか。

とりあえず今週は財布の状態にあわせて前者のふりをして過ごします。きっと。